科学とは何か(What is Science?, 1945)
ジョージ・オーウェル 著
H.Tsubota 訳
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先週のトリビューンにJ・スチュワート・クック氏からの興味深い投書が掲載されていた。彼が投書で提案していたのは一般大衆の構成員全員が可能な限り科学的な教育を受けることこそ「科学的階級」の危険を避ける方法であるということ、同時に科学者をその孤立した状況から引き離して政治と行政の……続きを読む

WhatIsScience

ジョージ・オーウェルによる「What is Science?」の日本語訳。

第2次大戦が終了してまもない1945年10月に書かれたこのエッセーでオーウェルは科学教育について書いている。原子爆弾に象徴されるように第2次大戦は科学力が戦争の趨勢を決めることが広く理解された戦争だった。

ナチス・ドイツに敗北したフランスの首相ペタンは戦後になって「私の軍事的精神は閉ざされてしまった。新しい道具、新しい機械、新しい方法が導入されたとき、私はそれに関心を持たなかったことを告白しなければならない」と語っている[1]。エッセーが書かれた時点で科学教育を推進しようという声が大きくなっていたことは容易に想像できる。

オーウェルも科学教育を否定しているわけではない。問題にしているのはその方法だ。

若者は科学的な教育を受けなければならないと私たちに語る人々が言いたいのはまず間違いなく若者はもっと放射線や天体、生理学や自身の肉体について教えられるべきであるということであって、もっと厳密に考えることを教えられるべきであるということではないのだ。(ジョージ・オーウェル, "科学とは何か"

科学教育がたんなる知識・事実の習得であって思考方法の習得でないのであれば益は少ない、さらに言えばそのために文学や歴史の教育を減らすのであればむしろ害が上回るのではないかというのがオーウェルの主張だ。

その例として上げられているのがナチス・ドイツ時代のドイツの科学者たちだ。

しばしば漫然と「科学に国境はない」と言われるが、実際のところどんな国でも科学を職業にする者は背後にいる彼らの政府から資金の援助を受けている。そして彼らが感じる良心の呵責は作家や芸術家が感じるものよりも少ない。ドイツの科学コミュニティーは総じてヒトラーに対して無抵抗だった。(ジョージ・オーウェル, "科学とは何か"

フォン・ブラウンとか耳が痛いのではないだろうか(フォン・ブラウンの良さはその節操の無さだ、ということは言えるかもしれないが)。

これらが意味するのは大衆のための科学教育はもしそれが物理や化学や生物学といったものを増やし、代わりに文学や歴史を減らすというやり方に行き着くのであれば益が少なく、恐らくは害が多いだろうということだ。そういったやり方が平均的な人間に及ばす影響があるとすればそれはその人間の思考の幅を狭め、自分が持っていない知識を以前にも増して馬鹿にするようになるというものだろう。(ジョージ・オーウェル, "科学とは何か"

「予算が〜」という問題を横に置けば、最近の「大学で社会・人文学を教えて何の役に立つのか」という意見に対するひとつの回答になっているようにも思える。

[1] Wikipedia - フィリップ・ペタン