あなたの人生の物語
テッド・チャンを読み終わり。最近読んだSF小説の中ではかなりのあたりだった。
テッド・チャンは1967年、ニューヨーク州に生まれの小説家。物理学とコンピューターサイエンスを志したが途中で物理学を捨て、コンピューターサイエンス専攻で大学を卒業。かなり寡作な作家で2012年現在、長編は一作もない。「あなたの人生の物語」は2002年に出版された短編集だ。物理学、数学、言語学、また宗教やポリティカル・コレクトネスをモチーフにした作品が多い。
以下、各話の簡単な紹介。
バビロンの塔
ついに空の丸天井に到達したバビロンの塔の頂上で空に穴をあけるために雇われた鉱夫が主人公。塔で生まれ一生を塔で過ごす人々の生活をよそ者の鉱夫の視点で描き、ジョナサン・スウィフトの「ガリヴァー旅行記」の様な空想旅行記になっている。崩壊しなかったバベルの塔の話。
理解
著者自身による解説によると全てが無意味なものに見える様になった男を描くサルトルの「嘔吐」がこの作品の発端だったそうだ。この作品の主人公は人工的に発達させた脳神経の影響で嘔吐の主人公とは逆に全ての中に意味を見いだす男だ。次第に常人離れしていく主人公の様子が一人称で描かれ「アルジャーノンに花束を」を思い出させる。
ゼロで割る
算術規則ではある数値をゼロで割った結果は不定になる。もし結果が定義されればすべての数値が等値であること、つまり「1=2」であることが証明できてしまう。主人公の妻はフォン・ノイマンの再来と言われるほど優秀な数学者だが任意の数値が等値であることを証明してしまう。自らがよって立つ思考の基盤を失った彼女は次第に精神を失調していく。
あなたの人生の物語
地球外知的生命体とのファーストコンタクトにかり出された言語学者が相手の話す言語を習得していく様子と彼女の死んだ娘の回想が交互に展開されていく。時間軸に沿った人類の思考とは異なる形式の思考を地球外知的生命体から学んでいった主人公と物語の結末が巧みに結びついている。物語全てが伏線といった印象。
七十二文字
ヴィクトリア調時代を舞台にしているがこの世界では「名示」という72文字のコードによって動作するゴーレムが存在し、錬金術的世界観が現実のものになっている。「ディファレンス・エンジン」がスチームパンク、「屍者の帝国」がネクロパンクだとしたらこの作品はアルケミーパンクということになる。当時の社会改良主義的な発想を取り込んでいる所は芸が細かい。
人類科学の進化
科学雑誌Natureからの依頼で書かれた作品。独自のネットワークで情報をやり取りする超人類の出現によって科学雑誌の価値が無くなった、という内容を雑誌記事風にまとめていて掲載誌を考えるとなかなか皮肉が効いている。記事の内容によると人類による科学は超人類の科学を翻訳する解釈学に成り下がっているのだという。人類の中から超人類が生まれていく様子はアーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」の影響を感じさせる。
地獄とは神の不在なり
自然現象として雨が降る様に天使の降臨が行われ、それが自然に受け入れられている世界の話。その世界では神の実在は自明なのだ。天使の降臨では奇跡によって病が癒される者がいる一方でその激しい現象に巻き込まれて死ぬ者もいる。主人公は妻が天使の降臨に巻き込まれて死んだために苦悩する男。無神論者を公言するテッド・チャンらしい作品。
顔の美醜について-ドキュメンタリー
相貌失認という人の顔の見分けがつかなくなる脳機能障害が実在する。ではもし人工的に脳機能の一部を麻痺させ人間の顔の美醜を失認させる技術が開発されたら社会で何がおこるだろうか?生まれ持った容姿による「差別」を排除できるのではないか?人間の認知を操作するという点では「時計仕掛けのオレンジ」にも通じるテーマだが、この作品では人間の内心に踏み込む技術によってもたらされる社会的な対立をあくまでもニュートラルな視点でインタビュー形式のドキュメンタリーとして描いている。